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天に対する孝情、世の光に
私は時々、江原道平昌郡にある発旺山に登ります。標高1458メートルの山の麓には、リゾート地としてよく知られている「龍平リゾート」があります。国民的ドラマとして人気を博した「冬のソナタ」のロケ地にもなった所です。
山頂に登ると、世界に一つしかない珍しい生え方をした木があります。全く別の二種類の木が一体となり、まるで一本の木のように生えているのです。樹齢数百年にもなるエゾノコリンゴの木が母親で、それに抱かれるようにして育ったナナカマドの木は息子です。お互い支え合いながら仲良く生きるこの母子の木を、私は「マユモク」(「世界で唯一のナナカマド」の意)と名付けました。
この連理木は、古木となったエゾノコリンゴの木の中が空洞になり、そこに鳥が落としていったナナカマドの種が発芽し、根を張ってできたものです。エゾノコリンゴの木は、まるで赤ん坊を育てるようにナナカマドの木に栄養分を与え、自らの懐で少しずつ育てていきました。
ナナカマドの木は次第に大きくなりながら深く根を下ろし、まるで母親を養うように、エゾノコリンゴの木を支えて共生しています。空洞部分では、二種類の木がそれぞれ花を咲かせ、実を結ぶようになりました。植物ではありますが、まるで母子の間で交わされる美しい愛と思いやり、深い情が表現されているようで、これ以上ない孝情のモデルとなっています。
「孝情」という言葉に初めて接する人は、ほとんどが首をかしげます。何となく分かりそうであっても、その意味を正確に述べることは容易ではないからです。
「真心を込めて親孝行するという意味でしょうか? それとも親孝行の気持ちという意味ですか?」
ある人は、こう尋ねたりもします。
「もしかして、このヒョヂョンというのは、效情のことですか?」
「效情」とは、韓国の言葉で「真の情を尽くす」という意味なので、それほど間違った解釈ではありません。しかし、私が初めて使った「孝情」という言葉は、それよりもさらに深くて広い意味を持っています。
「孝」は、東洋にだけある言葉です。強いて英語で言うならば、「フィリアルデューティ(filial duty)」です。しかし、これでは「父母に対して果たすべき子供の義務」という意味になるので、孝の深い意味を表現していることにはなりません。孝を義務としてのみ感じるのならば、心からにじみ出る思いで父母を敬うことはできないし、愛することもできません。孝は韓国の美しい伝統であり、生きていく上での根幹です。これほど重要で価値のある孝が近年、徐々に色あせてきているのは、誰にとっても心痛いことに違いありません。
孝情を考えるとき、私はいつも、胸の奥深くに宿っている長男の孝進と次男の興進のことを思います。
先に霊界に旅立ったのは興進でした。冷戦真っただ中の時代に、父親を守るため、まだ幼いながらも勇敢に先頭に立った息子でした。私たち夫婦が韓国全土を回りながら勝共決起大会をしていた頃、共産主義の信奉者たちが殺害予告をして脅してくるということがあったのですが、そんな時は、興進がいつも腕をまくりながら言うのです。
「父さんは僕が守ります」
韓国で行った全国勝共決起大会の最終日、光州で文総裁が講演をするために演壇に上がろうとした時、着けていたはずのネクタイピンがなくなっていることに気がつきました。私は不思議に思いました。
「どこに行ったのだろう? いつなくなったのだろう?」
その時、太平洋を越え、アメリカのニューヨークにいた興進が交通事故に遭ったのです。ちょうど、文総裁が光州で壇上に上がり、講演を行っていた時刻でした。興進の運転する車の前方から、大型トレーラーが横滑りしながら迫ってきたのです。衝突の刹那まで、興進はハンドルを回し続けましたが、トレーラーを避け切ることはできませんでした。
ところで、普通は左ハンドルの車で右車線を走っていて、前からトレーラーが道を塞いで迫ってくれば、反射的にハンドルを左に切り、自分の座っている側が正面衝突するのを避けるはずです。しかし、事故後に地面に残ったタイヤの跡を調べてみたところ、興進の車はハンドルを右に切っていたことが分かりました。彼は助手席に座っていた後輩を助けるために、あえてハンドルを右に切り、天の国に昇っていったのです。
あとで明らかになったことですが、文総裁に危害を加えようとする人々が、聴衆を装って光州の会場に入ってきていました。しかし、舞台のある前方に向かおうとした彼らは、立錐の余地もなく詰めかけた聴衆の中に入っていけず、計画が水泡に帰していたのです。
文総裁を標的としていたサタンは、その期待が外れるや否や、代わりに興進を狙いました。興進は、「父さんは僕が守ります」と言った約束のとおり、犠牲の供えものとなったのです。
興進が生まれた時、彼が生後三日目になるまでなかなか目を開けなかったため、とても心配したのですが、「最後、父母に最も大きな孝行をして逝ったのだ」と私は思いました。その深い孝情を、家庭連合の信徒たちは余すことなく胸に刻んでいます。
長男の孝進は音楽が好きでした。今日、家庭連合の信徒の中に音楽をたしなむ青年たちが多いのは、孝進の影響が少なくありません。
長男らしく、彼は子供の頃から口癖のように言っていました。
「孝子という言葉は、僕のものだ!」
しかし、母親に対して心穏やかでなかったこともあるでしょう。友達の母親に比べて、持っているものが乏しくて質素に見え、なおかつ、いつも忙しくしていたからです。それでも彼は、そんな母親である私を慰めようと、大声で宣言していました。
「母さん! 僕が大きくなったら、母さんに何でもしてあげるよ!」
1970年代の初め、私たち夫婦がアメリカで活動を始めた頃は、どこに行っても東洋人は無視されていました。韓国人も日本人も関係なく、一様に「チャイニーズ」と呼ばれていた時です。文総裁はその時代に50州を巡回し、講演をしました。私たちに共感する人もたくさんいましたが、嘲笑する人も多くいました。
孝進は父母の後をついて回りながら、その一部始終を見ていました。共産主義者などが父親の講演する先々に現れては脅してくる姿を見て、わずか12歳であったにもかかわらず、「父さんを守るために、僕があいつらと闘う」と言って向かっていこうとするのでした。
そのような中で、世の人々がみ言を受け入れられるように導くには、努力と時間が必要であることに気づいた彼は、「旋風を巻き起こして、効果的に伝える方法はないだろうか?」と考え続けました。
「まさにこれだ!」
彼が見つけて膝をたたいたのが、ロックでした。そうして、音楽によって人の心を変え、教会に導かなければならないと決心した孝進は、3年間で1万曲を作ったのです。一日に10曲近く創作するというのは、普通の人にとってみれば不可能に近いことです。それを3年間、絶えず継続するというのは、さらに難しいことです。
孝進は自分の体を顧みず、日夜、創作に没頭しました。それが父母を喜ばせることのできる孝情の精神であり、世の中のために自分が果たすべき使命だと感じたのです。その多くの歌の中で、信徒たちに最も愛されたのは「汽笛」です。
あなたの願われる自分を見つけよう
高鳴るこの胸は、あなたのために走る汽笛なのさ
歌に感銘を受ける人が増え、信徒も増えていくにつれ、サタンの焦りも大きくなったことでしょう。
孝進は音楽に没頭し、昼夜を問わず作詞作曲をして、歌を歌うことに明け暮れましたが、2007年に韓国や日本で行ったコンサートが、生前最後の公演となりました。公園や連日の創作活動による過労で、2008年、天の国に向かったのです。
家庭連合の信徒たちは、音楽によって人々を神様の元に導こうとした孝進に、いつも感謝しています。孝進の火花を散らすような熱い音楽は、父と母のための孝情の表れでした。その孝情の精神を受け継ぐため、毎年秋、文総裁を追慕する聖和祝祭が開かれる時に合わせて、孝進を偲ぶ「孝情ミュージックフェスティバル」も一緒に開催されています。
父母のために自分は何をするか悩み抜き、その道を勇敢に進んでいく人が孝子です。そのような孝子は、常に侍る精神を持って人々に接するので、どこに行っても歓迎を受け、必ずや志を果たします。自分ではなく、他のすべての人に侍る「孝情」は、だから偉大なのです。
私は文総裁の聖和4周年の時、孝情の美しい種を世に蒔きました。韓国の伝統的な侍墓精誠の期間である3年が過ぎ、文総裁の追慕祭はそれまでとは違う形で開かれるようになりました。悲しみを乗り越え、新たな希望と平和を切り開く祝祭の場となったのです。2016年8月、「天に対する孝情、世の光に」をテーマとして宣布し、掲げた追慕祭は、地球の至る所に愛の手を伸ばしていく喜びの場となりました。
追慕祭では、真の父母の足跡を振り返る一方で、多彩な文化公演も行われました。「御飯は愛である」をモットーに、「和合統一ビビンパ分かち合い大祝祭」の時間も持ちました。大きな釜に御飯と選りすぐりの食材をたっぷり入れてビビンパを作り、信徒たちで和気あいあいと分け合って食べるのです。私も大きなしゃもじを持って一緒に御飯を混ぜながら、世界人類が一家族として和合することを念願しました。
また、エンターテインメントだけでなく、様々なプログラムも行われました。一カ月以上にわたって講演やセミナー、各種行事が国内外で開かれ、私たちの進むべき方向性を模索する貴重な時間を持ったのです。
夫が聖和した日、「草創期の教会に帰り、神霊と真理によって教会を復興させます」と約束したことを、私は今も胸深く刻みつけています。妻として夫を慕う思いが決して消えないのと同じように、私の胸には孝進と興進の孝情が息づいています。その孝情が人々に伝わり、皆が他のために生き、侍りながら生活していくならば、そこが真の天国になるのです。
孝は、人間にとって何よりも重要な実践徳目であり、人生における永遠の柱です。親孝行は、父母が生きている時にしなければなりません。父母が旅立ってしまった後に、いくら親孝行するといってあがいても、遅いのです。今この瞬間がどれほど貴く、誇らしいかを知らなければなりません。このように崇高な価値を新たに発現させた孝情の光は、韓国から出発してアジアを越え、世界を照らす光として輝いています。