緒 論
復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。前編で既に論証したように、人間は長成期の完成級において堕落し、サタンの主管下におかれるようになってしまった。したがって、このような人間を復帰するためには、まず、サタンを分立する摂理をなさらなくてはならないのである。しかし、既にキリスト論において詳しく論じたように、堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない。ところで、この原罪は、人間が、その真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、取り除くことはできないのである。それゆえに、堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。このように復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。それゆえに、これを復帰原理というのである。我々はここにおいて、復帰摂理がどのようにして成就されるかということについて調べてみることにしよう。
(1) 蕩 減 復 帰
蕩減復帰原理に関する問題を論ずる前に、我々はまず、人間がその堕落によって、神とサタンとの間において、どのような立場におかれるようになったかということを知らなければならない。元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。
それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。
アダムの家庭はこのような中間位置にいたので、神は彼らに供え物をささげるように命じられたのである。その理由は、神が彼らをして、供え物をそのみ意にかなうようにささげさせることによって、復帰摂理をなし得る立場に彼らを立たせようという目的があったからである。しかし、カインがアベルを殺害することによって、かえってサタンが彼らに侵入し得る条件が成立したのであった。神が堕落人間たちにイエスを送られたのも、彼らにイエスを信じさせて、天の側に立つようにさせるためであった。ところが、そのみ旨とは反対に、彼らがイエスを信じなかったので、当然そのままサタンの側にとどまらざるを得なかったのである。イエスが救い主であられると同時に、審判主でもあられる理由は実はここにある。
それでは、「蕩減復帰」というのはどういう意味なのであろうか。どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを「蕩減」というのである。例を挙げれば、失った名誉、地位、健康などを原状どおりに回復させるためには、必ずそこに、その必要を埋める努力とか財力などの条件を立てなければならない。また、互いに愛しあっていた二人の人間が、何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、このような状態から再び、互いに愛しあっていた元の状態に復帰するためには、彼らは必ず、お互いに謝罪しあうなどのある条件を立てなければならないのである。このように、堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足るある条件を立てなければならない。堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを「蕩減復帰」といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを「蕩減条件」というのである。そして、このように蕩減条件を立て、創造本然の人間に復帰していく摂理のことを「蕩減復帰摂理」というのである。
それでは、蕩減条件はどの程度に立てなければならないのだろうか。この問いに対して、我々は次のような三つの種類のものを取りあげることができる。その第一は、同一のものをもって蕩減条件を立てることである。これは、失った本然の位置と状態と同一なる価値の条件を立てることによって、原状へと復帰することをいうのである。例えば、報償とか還償と呼ばれるものが、これに属する。出エジプト記二一章23節から25節に、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足……をもって償わなければならない」とあるみ言は、とりもなおさずこのような蕩減条件を立てることを意味するのである。
第二は、より小さいものをもって蕩減条件を立てる場合である。これは本然の位置と状態から失われたものよりも、もっと小さい価値の蕩減条件を立てることによって、原状へと復帰することを意味するのである。例を挙げれば、ある債務者が多額の負債を負っているとき、その債権者の好意によって、その中の一部の少額だけを返済することをもって、負債の全額を清算したと見なすことがある。このような場合が、すなわちこれに該当するのである。この原則によって、我々は十字架の代贖を「信ずる」というごく小さな蕩減条件を立てることにより、イエスと同一の死を経て再び生きたという条件を立てたと見なされて、救いの大いなる恩恵を受けるようになるのである。また、我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。このような例は、みなこれに該当するということができる。
第三には、より大きなものをもって蕩減条件を立てる場合である。これは、小さい価値をもって蕩減条件を立てるのに失敗したとき、それよりも大きな価値の蕩減条件を再び立てて、原状へと復帰する場合をいう。例えば、アブラハムは鳩と羊と雌牛とをささげる献祭において失敗をしたため、彼の蕩減条件は加重され、一人息子のイサクを供え物として、ささげるようになった。また、モーセのときには、イスラエル民族が四十日の偵察期間を、天のみ意にかなうように立てることができなかったために、その蕩減条件が加重され、彼らは一日を一年として計算した四十年間を、荒野において流浪しなければならなかったのである(民数一四・34)。
それではどうして、蕩減条件を再び立てるときには、より大きい条件を立てなければならないのであろうか。それは、ある摂理的中心人物が蕩減条件を再び立てるときには、彼が立てなければならない元々の蕩減条件と共に、彼以前の人物たちの失敗による蕩減条件までも付け加えて立てなければならないためである。
つぎに、我々が知らなければならないことは、蕩減条件をどのような方法で立てるかという問題である。どのようなものであっても、本来の位置と状態から離れた立場から原状へと復帰するためには、それらから離れるようになった経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件を立てなければならない。例えば、イスラエルの選民たちは、イエスを憎んで、彼を十字架につけたために罰を受けるようになったが、彼らがそのような立場から再び救いを受けて、選民の立場を復帰するためには、以前とは反対にイエスを愛し、彼のために自ら十字架を負うてついていくというところまで進まなければならないのである(ルカ一四・27)。キリスト教が殉教の宗教となった原因は実にここにある。人間が神のみ旨に反して堕落することによって神を悲しませたのであるから、これを蕩減復帰するためには、これと反対に、我々が神のみ旨に従って実践することにより、創造本然の人間として復帰し、神を慰労してあげなければならないのである。初めのアダムが神に背くことによって、その子孫たちはサタンの側に属するようになってしまった。したがって、後のアダムとして来られるイエスが、人類をサタンの側より神の側へと復帰するためには、神から見捨てられる立場にあっても、なお自ら進んで神に侍り 奉 らなければならなかったのである。神が十字架にかけられたイエスを見捨てられたのは、このような理由に基づくものであった(マタイ二七・46)。このような角度から見れば、国家の刑法も、罪を犯した人間たちに罰を与え、その国家の安寧と秩序とを原状どおりに維持するための蕩減条件を立てる、一つの方法であるということができるのである。
それでは、このような蕩減条件はだれが立てなければならないのであろうか。既に、創造原理において明らかにしたように、人間はあくまでも自分の責任分担を全うすることによって完成し、天使までも主管しなければならなかったのである。しかし、人間始祖がその責任分担を全うすることができなかったために、逆にサタンの主管を受けなければならない立場に陥ってしまった。それゆえに、人間がサタンの主管を脱して、逆にサタンを主管し得る立場に復帰するためには、人間の責任分担としてそれに必要な蕩減条件を、あくまでも人間自身が立てなければならないのである。
(2) メシヤのための基台
メシヤは人類の真の父母として来られなければならない。彼が人類の真の父母として来られなければならない理由は、堕落した父母から生まれた人類を重生させ、その原罪を贖ってくださらなければならないからである(前編第七章第四節(一)①)。したがって、堕落人間が創造本然の人間に復帰するためには、「メシヤのための基台」を完成した基台の上でメシヤを迎え、原罪を取り除かなければならない。
それでは、堕落人間が「メシヤのための基台」を造成するためには、いかなる蕩減条件を立てなければならないのであろうか。これを知るためには、元来アダムが、どのような経路によって創造目的を成就し得なくなったのであるかということを、まず知らなければならない。なぜなら蕩減条件は、本然の位置と状態を失うようになった経路と反対の経路をたどって立てなければならないからである。
アダムが創造目的を完成するためには、二つの条件を立てなければならなかった。その第一条件は「信仰基台」を造成することであったが、ここにおいては、もちろんアダムが「信仰基台」を造成する人物にならなければならなかったのである。その「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。そうして、この成長期間は数によって決定づけられていくものであるがゆえに、結局この期間は、数を完成する期間であるということもできるのである。
一方、アダムが創造目的を完成するために立てなければならなかった第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。もし、アダムが堕落しなかったならば、彼は前述したとおりの経路によって創造目的を完成したはずであったから、堕落人間もまた「メシヤのための基台」を造成するためには、それと同じ経路をたどって、次に述べるような「信仰基台」を立て、その基台の上で、「実体基台」をつくらなければならないのである。
① 信仰基台
アダムは神のみ言を信じないで堕落してしまったので、「信仰基台」をつくることができなかった。したがって、彼はみ言の「完成実体」となることができなかったので、創造目的を達成することができなかったのである。それゆえに、堕落人間が創造目的を成就し得る基準を復帰するためには、まず初めに、人間始祖が立てることのできなかった、その「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。そしてその「信仰基台」を復帰するためには、次のような三種類の蕩減条件を立てなければならないのである。
第一には、そのための「中心人物」がいなければならない。アダムが「信仰基台」を立てる人物となることができずに堕落してしまったので、それ以後今日に至るまで、神は「信仰基台」を復帰し得る中心人物を探し求めてこられたのである。堕落したアダムの家庭において、カインとアベルをして供え物をささげるようにされたのも、このような中心人物を探し求めるためであったし、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そして列王たちと洗礼ヨハネなどを召命されたのも、実は彼らをこのような中心人物として立てるためであった。
その第二は、そのための「条件物」を立てなければならないということである。アダムは「信仰基台」をつくるための条件として下さった神のみ言を信じなかったために、それを失ってしまった。このように、堕落した人間は、「信仰基台」を復帰するための神のみ言を、直接には受けられない位置にまで落ちてしまったので、そのみ言の代わりとなる条件物が必要となったのである。そして、堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ一七・9)、旧約以前の時代においては、供え物、あるいは、その供え物を代表する箱舟などの万物を条件物として立て、「信仰基台」をつくるようになったのである。それゆえに「信仰基台」は、人間の不信によってサタンの侵入を受けた万物を復帰する基台ともなるのである。そして、旧約時代においては律法のみ言、あるいはそれを代表する契約の箱、神殿、中心人物などが、この基台を造成するための条件物であった。また、新約時代においては福音のみ言、さらには、そのみ言の実体たるイエスが、「信仰基台」造成のための条件物であったのである。人間が堕落したのちにおけるこのような条件物は、人間の側から見れば、それは「信仰基台」を復帰するためのものであるが、神の側から見るときには、それはどこまでも所有を決定するためのものであったのである。
その第三は、そのために「数理的な蕩減期間」を、立てなければならないということである。それでは、この摂理的な数による蕩減期間がなぜ存在しなければならないのであるか、また、どのような摂理的な数の蕩減期間を立てなければならないかという問題は、便宜上、後編の第三章第二節(四)において詳しく取り扱うことにした。
② 実体基台
堕落人間が創造目的を完成するためには、「信仰基台」を復帰した基台の上で、過去に人間始祖が成就し得なかった「完成実体」を成就しなければならない。しかし、堕落人間は、どこまでもメシヤを通して原罪を取り除かなければ「完成実体」となることはできない。ところで堕落人間は、上述した「信仰基台」を蕩減復帰した基台の上で、「実体基台」を立てることによって成就される「メシヤのための基台」があって、初めてその上でメシヤを迎えることができるのである。堕落人間は、このようにしてメシヤを迎えて原罪を取り除き、人間始祖の堕落以前の立場に復帰したのちに、神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて「完成実体」となることができるのである。一方、「実体基台」を立てる場合においても、堕落人間が立てなければならないある蕩減条件が必要である。それがすなわち、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」である。人間始祖は堕落して原罪をもつようになるに従って、創造本性を完成することができず、堕落性本性をもつようになった。ゆえに、堕落人間がメシヤを迎えて、原罪を取り除き、創造本性を復帰するための「実体基台」を立てるためには、まずその「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければならないのである。この条件をどのようにして立てるかということに関しては、後編第一章第一節(二)において論ずることにする。
(1) 復帰摂理路程の時代的段階
ここでは、アダム以後今日に至るまでの全歴史路程における、時代的段階について概観してみることにしよう。堕落人間をして、「メシヤのための基台」を立てるようにし、その基台の上でメシヤを迎えさせることにより、創造目的を完成しようとした神の摂理は、既にアダムの家庭から始められたのであった。しかし、カインがアベルを殺害することによって、その摂理の目的は挫折してしまい、その後十代を経て、その摂理の目的は、再びノアの家庭に譲り移されたのである。四十日の洪水をもって悪の世代を審判なさったのは、ノアの家庭を中心として「メシヤのための家庭的基台」を立てさせ、その基台の上にメシヤを送ることによって、復帰摂理を完遂させるためであった。しかし、ノアの次子ハムの堕落行為によって、ノアの家庭と箱舟を立てるために聖別した十代と四十日をサタンに奪われてしまった。しかし、これらを再び天の側に蕩減復帰する期間、すなわち四〇〇年を経たのち、摂理の目的は再びアブラハムに譲り移されたのである。それゆえに、もしアブラハムが「メシヤのための家庭的基台」を、み旨にかなうように立て得たならば、その基台を中心として「メシヤのための民族的基台」を造成して、その基台の上でメシヤを迎えるはずであった。ところが、アブラハムが象徴献祭に失敗することにより、その目的は再び挫折してしまったのである。それゆえに、メシヤを迎えるための信仰の父を探し求めてきたアダム家庭からの二〇〇〇年の期間は、いったんサタンに奪われるほかはなかった。しかし、アブラハムがノアの立場と異なるのは、たとえ象徴献祭には失敗したとしても、イサク、ヤコブの三代にわたって延長しながら、「メシヤのための家庭的基台」を立てることにより、この基台を中心として、エジプトにおいて神の選民を生み殖やし、後日「メシヤのための基台」を民族的に広めることができたという事実にあるのである。アブラハムを信仰の父という理由はここにある。それゆえに、結果的に見れば、アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年の期間は、信仰の父であるアブラハム一人を立てて、将来、復帰摂理を始めることができるその基台をつくる期間であったということができる。復帰摂理のみ業(役事)が、アブラハムから始められたという理由はここにあるのである。
アブラハムの象徴献祭の失敗によって、アダムからアブラハムに至るまでの二〇〇〇年の期間をサタンに奪われてしまったので、この期間を再び天の側に蕩減復帰する期間がなければならないのであるが、この期間がすなわちアブラハムからイエスが来られるときまでの二〇〇〇年期間であった。もし、アブラハムが象徴献祭に失敗しなかったならば、その子孫たちによって立てられるはずの「メシヤのための民族的基台」の上にメシヤが来られたはずであったので、そのときに復帰摂理は成就されることになっていたのである。これと同じく、もしユダヤ民族が、イエスを信じかつ侍り奉って、彼を神の前に民族的な生きた供え物として、み旨にかなうように立てていたならば、そのときにおいても彼らが立てた「メシヤのための民族的基台」の上に来られたメシヤを中心として、復帰摂理は完成されることになっていたのである。
しかし、アブラハムが象徴献祭に失敗したのと同様、ユダヤ人たちもイエスを十字架につけることによって、その民族的な献祭に失敗したために、アブラハム以後イエスまでの二〇〇〇年の期間は、再びサタンに奪われる結果となってしまった。ゆえに、サタンに奪われたこの二〇〇〇年期間を、再び天の側に蕩減復帰する二〇〇〇年の期間が必要となったのであるが、この期間がすなわち、イエス以後今日に至るまでの二〇〇〇年の期間だったのである。そして、この期間においては、イエスの十字架による復帰摂理によって、キリスト教信徒たちは「再臨主のための世界的基台」を立てなければならなかったのである。
(2) 復帰摂理路程の時代区分
① み言による摂理から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。
(ロ) また、アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。
(ハ) そして、イエスから再臨期までの二〇〇〇年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。
(ニ) また、イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、復帰摂理の完成のために下さる成約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が完成級まで成長する時代であるので、この時代を「完成成約時代」という。
② 復活摂理から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、人間が献祭によって、将来、復活摂理をなし得る旧約時代のための基台をつくる時代であったので、この時代を「復活基台摂理時代」という。
(ロ) アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、復活摂理の時代的恩恵と旧約のみ言によって、人間が霊形体級まで復活する時代であったので、この時代を「蘇生復活摂理時代」という。
(ハ) イエスからその再臨期までの二〇〇〇年期間は、復活摂理の時代的恩恵と新約のみ言によって、人間が生命体級まで復活する時代であったので、この時代を「長成復活摂理時代」という。
(ニ) イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、復活摂理の時代的恩恵と成約のみ言によって、人間が生霊体級まで完全復活する時代であるので、この時代を「完成復活摂理時代」という。
③ 信仰の期間を蕩減復帰する摂理から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、サタンに奪われたこの期間を、アブラハム一人を立てることによって、天のものとして蕩減復帰し得る、旧約時代のための基台をつくった時代であったので、この時代を「蕩減復帰基台摂理時代」という。
(ロ) アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、アブラハムの献祭の失敗によって、サタンに奪われたアダムからの二〇〇〇年期間を、イスラエル民族を中心として、再び天のものとして蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理時代」という。
(ハ) イエスからその再臨期までの二〇〇〇年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の二〇〇〇年期間を、キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理延長時代」という。
(ニ) イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
④ メシヤのための基台の範囲から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、献祭によってアブラハムの家庭一つを立てることにより、「メシヤのための家庭的基台」を造成した時代であったので、この時代を「メシヤのための家庭的基台摂理時代」という。
(ロ) アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、旧約のみ言によってイスラエル民族を立てることにより、「メシヤのための民族的基台」を造成する時代であったので、この時代を「メシヤのための民族的基台摂理時代」という。
(ハ) イエスからその再臨期までの二〇〇〇年期間は、新約のみ言によって、キリスト教信徒たちを世界的に探し求めて立てることにより、「メシヤのための世界的基台」を造成する時代であったので、この時代を「メシヤのための世界的基台摂理時代」という。
(ニ) イエス再臨以後の復帰摂理完成時代は、成約のみ言によって、天宙的な摂理をすることにより、「メシヤのための天宙的基台」を完成しなければならない時代であるので、この時代を「メシヤのための天宙的基台摂理完成時代」という。
⑤ 責任分担から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、次の旧約時代に、神の責任分担による摂理をなさるための基台を造成した時代であったので、この時代を「責任分担基台摂理時代」という。
(ロ) アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、神が人間を創造された原理的な責任を負われて、自らサタンを屈伏する第一次の責任を担われ、預言者たちに対して蘇生的な復帰摂理を行われた時代であったので、この時代を「神の責任分担摂理時代」という。
(ハ) イエスからその再臨期までの二〇〇〇年期間は、堕落の張本人であるアダムとエバの使命を、代わりに完成しなければならなかったイエスと聖霊とが、サタンを屈伏する第二次の責任を担われて、堕落人間に対し長成的な復帰摂理を行われる時代であるので、この時代を「イエスと聖霊の責任分担摂理時代」という。
(ニ) イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、人間が本来、天使までも主管するようになっている創造原理に立脚して、地上と天上にいる聖徒たちが、堕落した天使であるサタンを屈伏する第三次の責任を担って復帰摂理を完成しなければならない時代であるので、この時代を「聖徒の責任分担摂理時代」という。
⑥ 摂理的同時性から見た時代区分
(イ) アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、「メシヤのための基台」を復帰する蕩減条件を、象徴的に立ててきた時代であったので、この時代を「象徴的同時性の時代」という。
(ロ) アブラハムからイエスまでの二〇〇〇年期間は、「メシヤのための基台」を復帰する蕩減条件を、形象的に立ててきた時代であったので、この時代を「形象的同時性の時代」という。
(ハ) イエスからその再臨期までの二〇〇〇年期間は、「メシヤのための基台」を復帰する蕩減条件を、実体的に立ててきた時代であるので、この時代を「実体的同時性の時代」という。
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。しかし、堕落人間においては、自分一人でこのような立場に立ち得る人間は一人もいない。それゆえに、我々は、復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、また彼を信じ、彼に侍り 奉 り、彼と一つになることによって、彼と共に、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならないのである。
このように、復帰摂理の目的を達成するために地上に来た先人たちが歩んだ道を、今日の我々は再び反復して歩まなければならないのである。そればかりでなく、我々は彼らがだれも歩み得ず、取り残した道までも、全部歩まなければならないのである。それゆえに、堕落人間は、復帰摂理の内容を知らなければ、決して命の道を歩むことはできない。我々が復帰原理を詳細に知らなければならない理由は、実はここにあるのである。