終末論2

 

第四節 終末 と 現 世

 

イエスが、将来訪れるであろうペテロの死に関して話しておられるとき、そのみ言を聞いていたペテロが、ヨハネはどうなるのでしょうか、と質問した。これに対してイエスは、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」(ヨハネ二一・22)と答えられた。それゆえに、このみ言を聞いた使徒たちは、みなヨハネが生きているうちに、イエスが再臨されるだろうと信じていたのである。そればかりでなく、マタイ福音書一〇章23節を見れば、イエスはその弟子たちに、「あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう」と言われており、また、マタイ福音書一六章28節には、「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と、言われたのである。

このようなみ言によって、イエスの弟子たちもそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒たちは、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼らは、常に終末であるという切迫感から逃れることができなかったのである。これは、終末に対する根本的な意義を知らなかったからであった。我々は今ここにおいて、神が復帰摂理の目的として立て、それを成就しようとしてこられた三大祝福が復帰されていく現象を見て、現代がすなわち終末であるということを、立証することができるのである。それゆえにイエスは、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四・32)と、言われたのである。

 

(一) 第一祝福復帰の現象

 

既に創造原理において論じたように、神がアダムとエバに約束された第一祝福は、彼らが個性を完成することを意味するのである。堕落人間をして、個性完成した創造本然の人間へと復帰してこられた神の摂理が、その最終段階に至っているということは、次のような各種の現象を見ても知ることができる。

第一に、堕落人間の心霊が復帰されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、既に述べたとおりである。それゆえに、アダムとエバも、不完全な状態ではあったが、神と一問一答した段階から堕落し、その子孫たちは、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、堕落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるに従って、漸次その心霊が復帰されるので、終末に至っては、使徒行伝二章17節に「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは 幻 を見、老人たちは夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒たちが、神と霊通するようになるのである。そこで、現世に至り、霊通する信徒たちが雨後の竹の子のように現れるのを見れば、現世は終末であるがゆえに、人間が個性を完成し神の第一祝福を復帰することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。

第二に、堕落人間が、本心の自由を復帰していくという歴史的な帰趨が、これまた、それを示しているのである。人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出ていくことのできる自由を失ってしまった。ところが現世に至っては、肉体の命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められてくるが、これは、終末になって個性を完成することにより、堕落人間が、サタンに奪われた神の第一祝福を復帰し、神の前に自由に出ていくことのできる時代に入っているからなのである。

第三に、堕落人間の、創造本然の価値性が復帰されていく現象を見て、そうであるということを、より確かに知ることができる。つまり人間の創造本然の価値は、横的に見るときすべて同等であるがゆえに、その価値は、大して貴重なもののようには感じられないのであるが、天を中心として縦的に見るとき、各個性は、最も尊い天宙的な価値を、それぞれもっているのである(前編第七章第一節)。

実に人間は、堕落することによって、このような価値をみな失ってしまったのである。ところが現代に至り、民主主義思想が高潮して、人々は奴隷解放、黒人解放、弱小民族解放などを主張しながら、人権擁護と男女平等、そして万民平等を叫ぶことによって創造本然の個性の価値を、最高度に追求するようになったのであるが、これはとりもなおさず終末となり、堕落人間が失った神の第一祝福を復帰できる時代に入っているということを実証するものである。

第四に、堕落人間の本性の愛が復帰されていくという事実が、個性を完成していく終末のときの到来を更に証明してくれる。神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界であって、その世界の人間は、みな神と縦的に一体となっているがゆえに、人間相互間においても横的に一体とならなければならないのである。したがって、この世界はもっぱら、神の愛をもって縦横に結ばれ、一つの体のようにならざるを得ないのである。しかし、人間は堕落によって神との縦的な愛の関係を断たれてしまったので、人間同士の横的な愛も切断され、人類歴史は闘争のもつれによって流れてきた。しかし、現代に至っては博愛主義思想が高潮してくるに従い、人間が漸次、その本性愛を探し求めてきているのを見ても、現代は神の第一祝福を復帰することにより、神の愛を中心として個性を完成することができる終末に入っている、という事実を知ることができるのである。

 

(二) 第二祝福復帰の現象 

 

神の第二祝福は、アダムとエバが真の父母として完成し、善の子女を繁殖することにより、善主権の家庭と、社会と、世界を成就するようになるということを意味する。しかし、アダムとエバは堕落して悪の父母となったので、全人類は悪の子女となり、悪主権に拘束された世界をつくってしまったのである。しかし神は一方に宗教を立てて摂理することにより、内的なサタン分立による心霊復帰の摂理をされ、また、他方においては、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における主権復帰の摂理をしてこられたのである。このように人類歴史は、内外両面のサタン分立による復帰摂理を通じて、将来の真の親であられるイエスに仕えることのできる子女を探し求めて、神の第二祝福を復帰してきたから、それは宗教を中心とする文化圏の発展史と国家興亡史とに現れた内外両面における神の主権復帰の現象を見ることによって、現世がすなわち終末であるということを知ることができるのである。

我々はまず、文化圏発展史がどういうふうに流れてきて、現代を終末へと導いているのかを明らかにしよう。文化圏発展史に関する問題は、既に幾度か論じてきたが、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を指向する人間の本心に従って、宗教を立たしめ、その宗教を中心とする文化圏を起こしてこられたのである。それゆえに、歴史上には数多くの文化圏が形成されたのであるが、時代が流れるに従って、これらは互いに融合、あるいは吸収され、現代に至っては、キリスト教を中心とする一つの世界的な文化圏をつくっていく趨勢を見せているのである。このような歴史的な趨勢は、キリスト教の中心であるイエスを中心として、すべての民族が、同じ兄弟の立場に立つようになるということによって、神の第二祝福が復帰されつつあるという事実を示しているのである。

キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である。これはとりもなおさず、キリスト教が、復帰摂理の目的を完成する中心的な宗教であるということを意味するのである。このように、現世に至っては、世界がキリスト教を中心として一つの文化圏を形成し、人類の真の父母であられるイエスと聖霊(前編第七章参照)を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復帰の現象を見せている。このような事実を見ても我々は現代が終末であるということを否定することができないのである。

つぎに我々は、国家興亡史がどのように主権復帰の目的に向かって流れてきて、現代を終末へと導いているかについて調べてみることにしよう。闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上一五・18〜23)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下一七・23)。神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。こうして、サタン分立のための闘争歴史は、次第に土地と財物とを奪って、天の側の主権へと復帰するに至ったのであり、人間においても個人より家庭、社会、そして国家へと、天の側の基台を広め、今日に至っては、これを世界的に復帰するようになったのである。このように、サタン分立のための摂理が氏族主義時代から出発し、封建主義時代と君主主義時代を経て、民主主義時代に入って今日に至っているが、今やこの人間世界は、天の側の主権を立てようとする民主主義世界と、サタンの側の主権を立てようとする共産主義世界との、二つの世界に分立されている。

このように、サタンを中心とする悪主権によって出発した人類歴史は、一方において、宗教と哲学と倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次、悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至ったのである。目的が相反するこの二つの主権は、決して共存することができない。したがって、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交差し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争が行われ、結局サタン主権は永遠に滅び、天の側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。それゆえ現代は、善主権を指向する天の側の世界と、サタンを中心とする悪主権の世界とが対立して、互いに交差しているときであるから、ここから考えてもまた、終末であるといわなければならない。

このように、悪主権から善主権を分立してきた人類歴史は、ちょうど、荒れ狂う濁流が時間を経るに従って、泥は水底に沈み、水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるように、時代が進むにつれて、悪主権は次第に衰亡の道をたどって下降線を描き、善主権は興隆の道をたどって上昇線を描くようになるので、歴史の終末に至っては、この二つの主権はある期間交差したのち、結局、前者は永遠に滅亡してしまい、後者は神の主権として永遠に残るようになるのである。

このように、善悪二つの主権の歴史路程が交差するときを終末という。そしてさらにこのときは、アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期を、蕩減復帰するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきかを知らずに、混沌の中に陥っていったように、いかなる人間も思想の混乱を起こして、彷徨するようになるのである。

復帰摂理路程において、このように終末を迎えて、善悪二つの主権が交差していたときは、幾度かあった。既に述べたように、ノアのときやイエスのときも終末であった。ゆえに、この二つの主権が互いに交差していたのである。しかしそのたびごとに、人間はその責任分担を完遂できず、悪主権を全滅することができなかったので、神は主権分立の摂理を再びなし給わなければならなかった。したがってイエスの再臨期に、いま一度、二つの主権の交差があるのである。復帰摂理路程は、このように、周期的に相似的な螺旋状を反復しながら、円形過程を通りつつ創造目的を指向してきたから、歴史上においては必然的に、同時性の時代が形成されてきたわけである(後編第三章第一節参照)。

 

(三) 第三祝福復帰の現象

 

神の第三祝福はアダムとエバが完成して、被造世界に対する主管性をもつようになることを意味する。そして、被造世界に対する人間の主管性には、内外両面の主管性がある。人間は堕落によってこの両面の主管性を失ったのであるが、現代に至って、これが復帰されつつあるのを見て、現代が終末であるということを知ることができるのである。

内的主管性というのは、心情的主管性を意味する。すなわち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。けれども人間は、堕落して神の心情を体恤できなくなってしまったので、神の心情をもって、被造世界に対することもできなくなったのである。しかし、宗教、哲学、倫理などによる神の復帰摂理によって、神に対する堕落人間の心霊は、漸次開発されて明るくなり、現代に至っては、被造世界に対する心情的な主管者の資格を復帰しつつあるのである。

つぎに、外的主管性とは、科学による主管性を意味する。もし人間が完成して、被造世界に対する神の創造の心情と同一の心情をもって、被造世界を内的に主管できたならば、人間の霊感は高度に発達することができたはずであるから、科学の発達も、極めて短時日に最高度のものにまで達し得たはずであったのである。このようになって初めて、人間は被造物に対する外的な主管をなし得るのである。したがって、人間は早くから天体をはじめとして、自然界全体を完全に主管できるばかりでなく、科学の発達に基づく経済発展によって、極めて安楽な生活環境をもつくることができたはずである。しかし、人間は堕落によって心霊が暗くなり、被造物に対する内的な主管性を失って、動物のように、霊感の鈍い未開人に零落してしまったので、被造物に対する外的な主管性までも失うようになったのである。しかし、人間は神の復帰摂理によって、心霊が明るくなるに従い、被造物に対する内的な主管性が復帰されてきたので、それに伴い、被造物に対する外的な主管性も、漸次復帰されてきて、現代ともなると科学の発達も最高度に達し得たのである。そして、科学の発達に伴う経済発展によって、現代人は極度に安楽な生活環境をつくるようになった。このように、堕落人間が被造世界に対する主管性を復帰するに従い、神の第三祝福が復帰されていく現象を見るとき、我々は、現代が終末であることを否定することができないのである。

今まで幾度か言及したように、文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっているのである。このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。

こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。

 

 

第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢

(一) 終末と新しい真理

 

堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ四・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。さらに、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。したがって知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それゆえに、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。

人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。それゆえに、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ一四・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から二〇〇〇年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。

したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。これを我々は新しい真理という。そしてこの新しい真理は、既に総序において論じたように、人間の内外両面の無知を打開するために、宗教と科学とを一つの統一された課題として、完全に解決し得るものでなければならない。

それでは新しい真理が出現しなければならない理由を、また他の方面から考察してみることにしよう。

前にも述べたように、聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、だれもが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。それゆえに、イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ一六・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。

イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。

しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。

そして「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」(黙五・1)と記録されているその巻物に、イエスが我々に与えようとされたそのみ言が、封印されているのである。続いて聖書に記録されているみ言を見れば、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見るにふさわしい者が一人もいなかったので、ヨハネが激しく泣いていると「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙五・3〜5)と言われているのである。ここにおいて、ダビデの若枝として誕生した獅子と記されているのは、とりもなおさず、キリストを意味するのである。このようにキリストが人類の前で、長らく七つの印をもって封じ、秘密として残されていたそのみ言の封印を開き、信徒たちに新しい真理のみ言として与えてくださるときが到来しなければならないので「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と言われたのであった。それゆえにまた「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは 幻 を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」(使徒二・17、18)とも言われたのである。このようにどの方面から見ても、終末においては必ず、新しい真理が出現しなければならないのである。

 

(二) 終末に際して我々がとるべき態度

 

復帰摂理歴史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我々は発見することができる。したがって、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点ともなるのである。それゆえに、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出発して、各々その目的を異にし、世界的な実を結ぶようになった善と悪との二つの主権が、互いに交差する時期となるのである。ゆえにこの時代に処した人間たちは、内的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ちこむようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で戦慄するようになる。したがって、終末においては国と国とが敵対し、民族と民族とが相争い、家族たちが互いに闘いあうであろう(マタイ二四・4〜9)と聖書に記録されているとおり、あらゆる悲惨な現象が実際に現れるに違いない。

終末において、このような惨状が起こるのは、悪主権を清算して善主権を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モーセ、そしてイエスのような人々は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人々であった。それゆえに、このような歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならないのである。

このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。したがって、この摂理は古い時代の因習に陥っている人々には、なかなか納得ができないのである。新しい時代の摂理を担当してきた聖賢たちが、みなその時代の犠牲者となってしまった理由は、まさしくここにあったのである。その実例として、いまだ旧約時代の終末期であったときに、新約時代の新しい摂理の中心として来られたイエスは、旧約律法主義者たちにとっては、理解することのできない異端者の姿をもって現れたので、ついにユダヤ人たちの排斥を受けて殺害されてしまったのである。イエスが、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(ルカ五・38)と言われた理由もまたここにあったのである。

今や、イエスが再び新約時代の終末期において、新しい天と新しい地のために、新しい摂理の中心として来られ、新しい時代の建設のために(黙二一・1〜7)新しい真理を下さるであろう。それゆえに、イエスが初臨のときに、ユダヤ人たちからベルゼブル(悪霊のかしら)の乗り移った人間として、排斥されたように(マタイ一二・24)、再臨のときにおいても、必ずや再びキリスト教信徒たちの排斥を受けるに相違ないのである。ゆえに、イエスは将来再臨なされば、自分が多くの苦難を受け、その時代の人々から見捨てられるであろうと預言されたのである(ルカ一七・25)。したがって、歴史の転換期において、古い時代の環境にそのまま執着し、平安を維持しようとする人々は、古い時代と共に審判を受けてしまうのである。

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探しだしたその真理が、果たして自分の体の内で神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒たちは、真の救いの道をたどっていくことができるのである。