復帰摂理時代は、象徴的同時性の時代である復帰基台摂理時代を、形象的な同時性で蕩減復帰する時代である。今、この時代を形成した各時代と、その年数がどのようなかたちで成り立ったかを調べてみることにしよう。
(一) エジプト苦役時代四〇〇年
ノアは審判四十日の「サタン分立基台」の上で、「信仰基台」をつくったのであるが、ハムの失敗により、それが失われたので、神は再びアブラハムを、彼と同じ立場に立たせるため、四〇〇年を蕩減復帰した基台の上に、彼をして「象徴献祭」をささげるように命ぜられたのである。しかし、アブラハムの献祭失敗により、その基台は、更にサタンの侵入を受けたのである。ここに及んで、神は、サタンに奪われたその四〇〇年の基台を再び立てるため、イスラエル民族をして、サタンを再分立するエジプト苦役期間四〇〇年間を歩ましめ給うたのである(創一五・13)。この時代を、エジプト苦役時代と称する(後編第一章第三節)。この時代は、象徴的な同時性の時代のうち、アダムからノアまでの一六〇〇年を、形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。
(二) 士師時代四〇〇年
列王紀上六章1節に、「イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年、ソロモンがイスラエルの王となって第四年のジフの月すなわち二月に、ソロモンは主のために宮を建てることを始めた」と言われたみ言がある。これは、サウル王の在位四十年と、ダビデ王の在位四十年を経たのち、ソロモン王在位四年を経たときが、ちょうど、イスラエルの子孫がエジプトの地を出てから四八〇年目に当たるということであり、したがって、イスラエル民族が、エジプトからカナンの地に帰ってきたのち、サウル王が即位するまでは、約四〇〇年の期間であったことが分かるのである。この期間を士師時代と称する。
モーセを中心としたイスラエル民族は、ノアから四〇〇年の「サタン分立基台」の上に立たされたアブラハムの立場を、民族的に復帰するため、エジプト苦役四〇〇年の「サタン分立基台」の上に立たなければならなかったのである。しかし、モーセの代理であるヨシュアを中心として、カナンの地に帰ってきたのち、またもやイスラエルの不信により、この基台は、再び、サタンの侵入を受けたのである。その結果、イスラエル民族には、サタンに奪われたこのエジプト苦役の四〇〇年の基台を、再び蕩減復帰するための、サタン再分立期間がなければならなかったのである。このような期間として再び立たせられたのが、イスラエル民族が、エジプトからカナンの地に帰ってきたそのあとからサウル王が即位するまでの、士師時代四〇〇年である。
そして、この時代は、象徴的な同時性の時代のうち、ノアからアブラハムまでの四〇〇年を形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。
(三) 統一王国時代一二〇年
復帰基台摂理時代を蕩減復帰するために、復帰摂理時代が来るようになったので、この摂理路程を出発したアブラハムはアダムの立場であり、モーセはノアの立場で、サウル王はアブラハムの立場であったのである。なぜなら、アブラハムは、復帰基台摂理時代の終結者であると同時に、復帰摂理時代の出発者であったからである。ゆえに、アブラハムは「メシヤのための家庭的な基台」を立てたのち、その基台の上で、「メシヤのための民族的な基台」を立てなければならなかった。そして、アブラハムのときは、神が「メシヤのための家庭的な基台」を成し遂げるに当たって、その三回目に当たっていたので、そのときには、それを必ず達成しなければならなかったように、「メシヤのための民族的な基台」を成し遂げようとされた摂理も、これまたサウル王のときが、その三回目に当たっていたので、そのときには必ずそれを成し遂げなければならなかったのである。
ところで、アブラハムは、ノアのときに立てられた「信仰基台」を復帰するための数理的な蕩減期間である一二〇年、四十日、二十一日、四十日などを、「象徴献祭」を中心として横的に蕩減復帰させようとしたが、失敗して、この目的は完成されなかった。ここで、アブラハムは、これらを縦からなる横的な蕩減期間として復帰するため、一二〇年、四十年、二十一年、四十年を立てたのである。これと同様に、アブラハムの立場を民族的に蕩減復帰したサウル王も、やはり、アブラハムと同様に、モーセのときの「信仰基台」を復帰するための数理的な蕩減期間である一二〇年(モーセの四十年ずつの三次の生涯)、四十日(断食期間)、二十一日(第一次民族的カナン復帰期間)、四十年(民族的カナン復帰の荒野期間)などを、神殿を建てることによって、それを中心として横的に蕩減復帰させようとした。しかし、サウル王もやはりまた、不信に陥ったので(サムエル上一五・11〜23)、この摂理は成し遂げられずに、アブラハムのときと同じく、これらを縦からなる横的蕩減復帰期間として復帰するため、統一王国時代一二〇年、南北王朝分立時代四〇〇年、イスラエル民族の捕虜および帰還時代二一〇年、メシヤ降臨準備時代四〇〇年を立てて、初めてメシヤを迎えるようになったのである。
それゆえに、統一王国時代は、モーセが民族的カナン復帰のため、三次にわたって「信仰基台」を立てた一二〇年を蕩減復帰する期間であった。これを、もう少し具体的に調べてみることにしよう。モーセを中心としたイスラエル民族が、エジプト苦役四〇〇年の「サタン分立基台」の上に立ったのちに、モーセは、パロ宮中における四十年間に「信仰基台」を立てて、イスラエル選民を導いてカナンに入り、神殿を建てようとした。しかし、イスラエルの不信により、この路程は、モーセのミデヤン荒野四十年、荒野流浪期間四十年に延長されたのである。これと同様に、イスラエル民族が、士師時代四〇〇年で、エジプト苦役の四〇〇年を蕩減復帰した基台の上に立ったのち、サウル王がユダヤ民族の最初の王として即位し、彼の在位四十年で、モーセのパロ宮中四十年を蕩減復帰することにより、「信仰基台」を立てて、神殿を建設しなければならなかったのである。しかし、サウル王の不信によって(サムエル上一五・11〜23)、モーセのときと同様に、神殿建設の目的は、ダビデ王四十年、ソロモン王四十年に延長され、統一王国時代一二〇年をつくるようになったのである。
そして、この時代は、象徴的同時性の時代のうち、アブラハムがハランの地を出たのち、ヤコブがエサウから長子の嗣業を奪うまでの一二〇年を、形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。したがって、あたかも、アブラハムの目的が、イサクを経てヤコブのときに成し遂げられたように、サウル王の神殿理想も、ダビデ王を経てソロモン王のときに、初めて成就されたのである。
(四) 南北王朝分立時代四〇〇年
サウル王は、その四十年の在位期間に、神殿建設の理想を成し遂げることによって、み言(石板)の復帰のための、モーセの断食四十日期間を横的に蕩減復帰させようとしたのであった。しかし、彼の不信のゆえに、この期間を再び、縦からなる横的蕩減期間として、復帰しなければならなかったのであるが、これがすなわち、統一王国時代が、北朝イスラエルと南朝ユダに分立されたのち、ユダヤ民族がバビロンへ捕虜として捕らわれていくまでの、四〇〇年の南北王朝分立時代であったのである。
この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがエサウからパンとレンズ豆のあつもので、長子の嗣業を奪う条件を立てたのち、再びイサクの祝福と、神の祝福を受けて(創二八・13)、ハランの地に入るまでの四十年間を、形象的な同時性として蕩減復帰する時代であった。
(五) ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年
北朝イスラエルが、彼らの不信により、アッシリヤへ捕虜として捕らわれたのち、南朝ユダもまた不信に陥ったので、バビロニアの王ネブカデネザルによって捕虜として捕らえられた。このときから彼らは、バビロンで七十年間捕虜になっていたが、バビロニアがペルシャによって滅ぼされたのち、ペルシャ王クロスの詔書によって解放された。ユダヤ民族はその後、長い期間にわたってエルサレムへ帰還したが、ネヘミヤが残りのユダヤ人を導いて帰国し城壁を再建したのち、彼らは預言者マラキを中心として彼の預言によって(マラキ四・5)、メシヤを迎えるための準備期に入った。このときが、彼らがバビロンに捕らえられてから二一〇年目に当たり、解放されはじめてから約一四〇年になるときであった。この時代を総合して、ユダヤ民族の捕虜および帰還時代というのである。
サウル王は神殿理想を成就することによって、モーセが、第一次にイスラエル民族を導いて、カナン復帰しようとした二十一日期間を横的に蕩減復帰させようとした。しかし、サウル王は、彼の不信によって失敗したので、再びこの期間を、縦からなる横的蕩減期間として復帰するため立てたのが、ユダヤ民族捕虜および帰還時代の二一〇年であったのである。
そして、この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがイサクから長子の嗣業に対する祝福を受けたのち、彼を殺そうとしたエサウを避けてハランの地に行って、サタンの側の人物であるラバンの要求により、レアを妻にめとるための七年間と、ラケルを妻にめとるための七年間、また、財物を得て、カナンに帰ってくるまでの七年間を合わせた二十一年間(創三一・41)を、形象的な同時性として、蕩減復帰する時代であったのである。
(六) メシヤ降臨準備時代四〇〇年
ユダヤ民族が、バビロンで解放され、カナンの地に帰郷したのち、神殿と城壁を再建して、預言者マラキの預言により、メシヤを迎えるべき民族として立ってから、イエスが誕生なさるまでの四〇〇年期間を、メシヤ降臨準備時代というのである。
サウル王は、彼の神殿理想を完成して、モーセを中心としたイスラエル民族が、第三次カナン復帰路程で費やした荒野四十年期間を、横的に蕩減復帰させようとしたのである。しかし、サウル王の不信によって、これが失敗したので、再び、この期間を縦からなる横的な蕩減期間として復帰するため立てたのが、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年期間であった。
この時代は、象徴的同時性の時代のうち、ヤコブがハランの地からカナンへ復帰したのち、売られていったヨセフを訪ねて、エジプトへ入るまでの四十年間を、形象的な同時性として、蕩減復帰する時代であったのである。
復帰摂理延長時代は、形象的同時性の時代である復帰摂理時代を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代である。ゆえに、この時代においては、復帰摂理時代を形成する各時代と、その年数を、そのまま蕩減復帰するようになるのである。
(一) ローマ帝国迫害時代四〇〇年
イエスは、信仰の祖であるアブラハムの目的を完成なさるために来られた方である。ゆえに、アブラハムが「象徴献祭」に失敗したことが原因となって成就できなかった「信仰基台」を、民族的に蕩減復帰するため、イスラエル民族にエジプト苦役四〇〇年のサタン分立期間があったように、ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。それゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、イスラエル民族のエジプト苦役時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当するのである。
(二) 教区長制キリスト教会時代四〇〇年
形象的同時性の時代である復帰摂理時代のうち、士師を中心としてイスラエル民族を導いてきた士師時代の四〇〇年があったので、実体的同時性の時代である復帰摂理延長時代においても、この士師時代四〇〇年を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されたのち、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位するまでの、士師に該当する教区長によって導かれた、教区長制キリスト教会時代四〇〇年期間なのである。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、士師時代四〇〇年を実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当する。
(三) キリスト王国時代一二〇年
復帰摂理時代において、イスラエル民族が、サウル王を中心として、初めて国王を立てたのち、ダビデ王を経てソロモン王に至るまで一二〇年間の統一王国時代があった。したがって、この時代を蕩減復帰するために、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位したのち、後日、彼の王統が絶えて、選挙王制となり、九一九年ヘンリー一世がドイツ王位につくまで一二〇年間にわたるキリスト王国時代がくるようになったのである。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、統一王国時代の一二〇年を実体的な同時性として、蕩減復帰する時代に相当する。
(四) 東西王朝分立時代四〇〇年
復帰摂理時代における統一王国時代に、神殿が摂理のうちで建てられなかったので、この王国が南朝と北朝に分裂され、四〇〇年間の南北王朝分立時代がくるようになった。ゆえに、復帰摂理延長時代においても、この時代を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト王国時代が過ぎたのち、西暦一三〇九年に、法王庁が南仏アヴィニョンへ移されるまでの、東西王朝分立時代四〇〇年であったのである。キリスト王国が分裂した当初は、東・西フランクとイタリアの三王朝に分立されていたが、イタリアは、東フランクを継承した神聖ローマ帝国の支配のもとにあったので、事実上、東西に両分されたと同様であった。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、南北王朝分立時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に当たるのである。
(五) 法王捕虜および帰還時代二一〇年
南北王朝分立時代において、北朝イスラエルは、偶像崇拝によりアッシリヤに滅ぼされ、南朝ユダも不信仰により神殿理想を再建できなかったので、彼らはサタン世界であるバビロンに捕虜として捕らえられるようになり、帰還して、再び神殿理想を立てるまで二一〇年かかったのである。したがって、この時代を蕩減復帰するために、東西王朝分立時代において、不信仰によりみ旨に反した法王クレメンス五世が、西暦一三〇九年に、ローマから南仏アヴィニョンへ法王庁を移したのち、法王が捕虜と同様な生活をするようになり、その後、再びローマへ帰ったのち、一五一七年宗教改革が起こるまで、約二一〇年間にわたる法王捕虜および帰還時代が生ずるようになった。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、ユダヤ民族捕虜および帰還時代の二一〇年を実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当するのである。
(六) メシヤ再降臨準備時代四〇〇年
バビロンの捕虜から解放されて、エルサレムに帰還したユダヤ民族が、預言者マラキを中心として政教の刷新を起こし、彼の預言により(マラキ四・5)、メシヤを迎えるための準備を始めてから、メシヤ降臨準備時代四〇〇年を過ぎたのちイエスを迎えた。それゆえに、この時代を蕩減復帰するため、復帰摂理延長時代においても、南仏アヴィニョンに幽閉された法王がローマに帰還したのち、西暦一五一七年、ルターを中心とする宗教改革が起こったときから、四〇〇年を過ぎて、初めて、再臨主を迎えることができるのである。ゆえに、この時代が、すなわち、メシヤ再降臨準備時代なのである。したがって、この時代は形象的同時性の時代のうち、メシヤ降臨準備時代四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に当たる。